江場 康雄


  「来世紀まで元気でいられるだろうか」、そんなことさえ思ったこともある。その21世紀が明けた。
 私は、この2月で60歳。還暦を迎える。1941年、戦争がはじまった年に生まれた。一人っ子でわんぱくだった。戦争の怖さを経験した。空襲で家と親父の店が焼け街は焦土と化した。疎開もした。いつも空腹でツギのあたった服を着ていた。タンスをのぞいてお袋の着物が自分の胃袋に消えたのを知った。
 駐留軍の米兵にチョコ−レートやアメをもらった。あまりの美味しさにたまげた。アメリカにあこがれた。ノッポの私は野球に熱中した。中学のころから勉強との相性が悪くなった。肩を痛め高一で好きな野球を断念した。グレた。喧嘩に強くなりたくて柔道場へ通った。
 文学部志望を親父が猛反対した。大喧嘩になった。お袋の涙で薬学部へ進路変更した。補欠で滑り込んだ。お酒とマージャンの毎日だった。巨漢90キロになっていた。
 大学三年のとき親父が倒れた。小さな商いは行き詰まり、倒産した。債権者会議で親父が罵倒されていた。情けなかった。不安だった。親父は大酒飲みでいつもお袋を怒鳴っていた。その嫌いだった親父と二人だけでインスタントラーメンだけの生活を数ヶ月した。はじめてまともに親父の目を見て話しをした。20年してやっと心が通ったような気がした。アルバイトとお袋のヘソクリで、何とか大学を卒業した。
 初任給では親子三人が食べていけないので就職しなかった。伯父さんに出資金の50万円を借り、医療ガスの商いをはじめた。商売のことは何もわからなかった。必死だった。親友が結婚をすすめてくれた。カミさんの実家へ向かう宇高連絡船で、商いと人生への覚悟を決めた。
 それ以来、素晴らしい方々との出逢いや、運の良さで、今日までいたった。その60年を振り返ると、実にいい時代を生きてきたものだと思う。世の中は、敗戦から奇跡的な復興、経済成長を遂げ、豊かさと便利さの追求を猛烈にしていった。
 ところが、いい時代と思っていたその裏側で、大きなひずみが生じてきた。こころの部分を脇におき、目に見える部分にのみ意識をおいたからだ。
 私はこの60年の変化を否定するつもりはない。とにかくみんな生きること、子どもいのちを守り育てることに必死だった。そして失ったものを取り返すのに懸命になっていたのだから。
 ここで、政治が、経済が、教育が、自然環境がと、愚痴を言ってもはじまらない。いま大切なのは、我われ一人ひとりにも原因があり、子どもが凶悪な罪を犯すのも、自然が破壊されるのも、大人の我われに責任があることを知ることではなかろうか。このバブル崩壊、さらに来るであろう大激変は、ひとつのチャンスかもしれない。モノが足りて心休まり、贅を尽くして本当の幸せが得られるかといえば、それは違う。
 20世紀から21世紀へ、価値観はすでに大きく変わり始めた。戦争から平和へ、理性文化から感性文化へ、物質文明から精神文明へ、能力から思想へ、量から質へ、知識から知恵へ、成長から持続可能社会へ、西洋から東洋へ、・・・・。
 私は、この21世紀の初頭に、“よき生活からよき人生へ”を提唱する。混乱の世であればなおさら眉間にシワを寄せてではなく、面白おかしく、具体的に実践したい。そんなことをこの世紀のはじめに、しみじみと想う。