山口 千晴

 『二十一世紀』アイヌの人々の誇りが尊重される社会の実現を目指してというテ−マで、アイヌ民族の歴史・文化講演会が、先日開かれましたのでレポートいたしました。
 講演された方及び講演の内容は、
1 北海学園大学の藤村 久和教授  「物語からみたアイヌ民族」
2 札幌国際大学の深沢 百合子教授 「外国からみたアイヌ民族」
 です。
  なお深沢教授の講演はスライドを使って行われました。

 私としては,藤村教授の講演に関しては特に興味はありませんでしたが、深沢教授の講演は非常に興味の持てる内容でした。以下、講演の内容と感想を述べます。

「外国(イギリス)からみたアイヌ民族」
 イギリスでは特に年配の方でアイヌの事を知っている人が多いそうで、それは1910年に開催された日英博覧会によるものだそうです。 日英博覧会は1910年の5月から10月の約6ヶ月間にも及び、日英の芸術・美術・産業など様々なジャンルの催しがあったそうです。その中で「アイヌ村」(博覧会では「AINU HOME」となっていました)というものがありました。アイヌ村にはチセが4棟ぐらい建てられ、それらの材料はすべて北海道から運ばれました。
 この博覧会に参加したアイヌは10名で、大人7名、子供3名だったそうです。10名全員が平取の沙流アイヌの人達でした。10名は北海道から様々な地域に寄港しながら、52日間かけてイギリスにたどり着いたそうです。彼・彼女らはイギリスに滞在した約半年間、博覧会内の会場で生活をしていました。会場内の「アイヌ村」での生活は快適なものだったようです。電気・水道が自由に使え、アイヌの人達には初めての経験でした。
  日英博覧会が開催されるにあたり、前宣伝がかなり大きくされていたらしく、アイヌに関しては女性の刺青などがかなりの話題にされていました。その中で誤った情報もあり、取材に来たイギリス人記者などはアイヌは人肉を食す民族だと誤解していたそうです。博覧会の「アイヌ村」は1910年10月29日で終わりを迎えました。「アイヌ村」で使用された物の約3分の1は、現在「大英博物館」に展示されているそうです。
 話は変り、次はアメリカが舞台です。1904年アメリカはミズ−リ州セントルイス、この地でもアイヌが参加した博覧会がありました。アメリカではイギリスとは対照的な部分があり、開催する際必要な展示品をアメリカ人が予め来道し購入したそうです。例としては、白老でチセを購入したそうです。この際に協力したのが当時札幌に在住していた、ジョン・バチェラ−だったと言われています。
 ここで深沢教授が強く主張していた事があります。それは、それぞれ2つの博覧会での展示品(資料)の持つ意味の違いが生じていると言われていました。イギリスではアイヌの人達自身が必要な物と考え、選択した物が展示・使用されたと言う事。アメリカではアメリカ人による選択で資料が決定されたと言う事。たとえそれがアイヌの人の手によって作られたにせよ、選んだのはアメリカ人である。以上が講演の内容でした。
 私個人的には、講演の内容以前に気になる点があります。それは「アイヌ」に民族をつけ、「アイヌ民族」とされている事です。これは大学の先生の影響があるのですが、「アイヌ」はアイヌ語で「人」と言う意味があり、アイヌという言葉にアイヌ人やアイヌ民族などの言葉をつけるのは不適切であると言われていました。インディアンにも自らの事を「人」を表す言葉で呼んでいる部族があります。アメリカ最大の部族であるナヴァホは自分達の事を、ナヴァホの言葉で「人」を意味する「ディネ」であると言っています。ディネはディネ、アイヌはアイヌで良いのだと個人的には思っています。その辺についてはアイヌの方達はどう思っているのでしょう?今度機会があれば聞いてみたいです。
 講演会についての感想は、90年代初めに海外に渡ったアイヌがいたと言う事に感心しました。アメリカで開催された博覧会については以前から少し知っていましたが、ほぼ同時期にイギリスでも開催されていたのは知りませんでした。詳しい内容については今度インタ−ネントで調べてみようと思っています。両国の当時の人々の反応はどういったものだったのか興味があります。90年代初めのアメリカ人の目にはアイヌがどう映っていたのか知りたい所です。アメリカにおける人種差別は異常な程なのでその点が非常に気になります。その当時のアメリカ人に、自らとは異なる民族の文化的価値や宗教、習慣を受け止めるだけの知識があったとはとても思えません。完全に否定はしませんが、私はそう思います。