児玉 幸雄

 旅行をするとき一番面倒なことは、たどり着いた先で宿泊場所をどうするかということだ。野宿を覚悟しているなら天気が晴れているば何とかOKだが、汗をビッショリかいていたり雪なんか降っていると、ひたすらあったかい風呂に入ってすぐベッドにもぐりたいこともある。ところがそういうときに限って、どこもかしこも予約客で満員ということが多い。特にニッポン国内を旅行するときには面倒で、部屋が空いているか否かがなかなか分からない。やっと捜し当てた旅館を探しても、玄関に入って「部屋、ありますか−」というと、「すみませ−ん、予約でいっぱいなんです、ごめんさ−い」。だったら道路から見えるところに満員ですとか、空き部屋ありませんとかの案内板を置いておけ。
 それでも見知らぬ土地を旅するときはワクワクするし、非日常世界に迷い込んだような気がしてスリルがある。そこで僕と家内は相談して小さなキャンピングカ−を買った。乗用車で引っ張っても何とかあちこち旅行ができる、そんな小さなモノだったけど寝心地はよかった。ベッドは大きいのが一つと、小さな二段ベッドが備えられている。ベッドは畳むとテ−ブルとソファ−になり、食事や書き物もできるので天気が悪くても平気だ。
 初めての小旅行は近所の湖のほとりで、仕事が終わった夕方に出発をした。途中のコンビニで食料を買い込み、鼻唄まじりでウキウキしながら目的地に着く。就寝するときに気にならないような平坦地を選び、そこで車を切り離してキャンピングカ−を置いておく。そのあとは温泉に入るために近くを捜し回り、気持ちのよい露天風呂でユックリとした。すっかりくつろいでキャンピングカ−に戻ってベッドに横になると、さっきまで仕事をしていたことが信じられないくらい幸せだ。目の前には支笏湖が神秘的な光景を繰り広げ。僕はキャンピングカ−の広い窓からその景色を眺めながら、今まで読む暇の無かった本を何冊か広げながら、どれから読もうかな−って悩んでいる。
 幸せを分析すると、今まで気になって出来なかったことを片づけることだろ。太陽までの距離は何十万キロメ−タ−で表されるけど、宇宙の果ての距離は光年という時間単位で表現するほかなくなる。光の速度が空間の大きさを示す単位に使われ、光の速度は時間の単位になるからだ。そうなると僕たちが生きて感じている時間が、まるで過去から未来に向かって直線的に進む、一方通行の現象として感じるのは何故なんだろう。過去は返らない時間で、未来は未だ至らない時間で、現在は止めようもなく過ぎ去る瞬間だからか?
 現在に生きていながら、夜に満天の星空を眺めていることは過去を眺めていることになる。星からの光は何光年も何億光年も経ち、一つとして同じ時代の光は地上に届かない。つまり現在という時間の地球で、遙か彼方の過去の光を眺めることは出来る。人生は直線的な時間経過と思え、夜空の星の光では過去がばらばらに展開している。地球上の生活時間では直線的で矛盾を感じないが、宇宙的な感覚になると時間の概念は少し常識を外れてくる。一億光年離れた星から今の時間に地球を見ていたら、地球には未だ人間がいない。僕たちが知りたい謎の時代を、その星に知的な生物が目撃している可能性があるのだ。
 地球では揺るがないリアルタイムという現在が、宇宙ではちぐはぐな時代の地球を観察できることになる。色々な星をテレビの画面に例えると、そこにはあらゆる時代の地球が映っているようなものだ。時間は絶対的な基準にはならず、ランダムな現象でしかない。ある星から見た地球は過去の出来事を映しり、その光景を見ている星の知性体がリアルタイムで地球と交信できるなら、彼らは過去と未来を同時に観察できることになる。宇宙という場所に生きているかぎり、時間は様々な解釈が出来る現象といえる変化を提供する。