塩野 洋
(フリーライター)

<ハゲワシは天使か?>
 私は長い間、死が恐かった。かつて訪れた紛争地で数多くの死を目の当たりにしてきた。私は、死は 無を意味するものだとずっと思ってきた。それがチベットを旅するうちに死という現象そのもの自体、 存在するのだろうかという疑問にぶつかった。今の自分は仮の姿であり、人は本当は死なないのではないか、 という思いにも駆られた。
 チベットでは人が死ぬと、たいがい鳥葬である。鳥葬は死体を解体し、鳥についばませる葬式だ。 私の見た鳥葬場はごつごつした岩に囲まれた小高い丘の上にあった。そこには死体を解体する「まな板岩」 と呼ばれる平たい岩があった。岩の上に放置しておけば、ハゲワシが死体をついばんでくれるというわけだ。 岩には死体の脂がこびりついているらしく、犬がぺろぺろとなめていた。日本人にとってこの光景はむごいと思うだろう。 しかし、肉体を自然に帰すという発想から考えれば、むしろ死体に油をかけて焼いてしまう方が残酷なことかもしれない。 岩の上空をゆっくり旋回する黒い群れを見た時、肉体が消滅しても、魂がハゲワシによってどこかに運ばれていくような 思いがした。そうか、ハゲワシはきっと天使なのだ。私は何の疑問も持たず、そう思った。  私は何かふっ切れた思いがした。ハゲワシという黒い天使を目にして、人は自然の一部として、死ぬために生きることも できることを知ったからかもしれない。

<輪廻転生>
 チベット仏教では、輪廻転生の考え方が根づいている。輪廻転生とは、無限に生と死を繰り返すこと。 人は生前の行いによって死後は地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人間、天の六つの世界に生まれ変わるとされている。 チベット仏教の総本山でラサ最大の寺、トゥルナン寺(別名・大昭寺、ジョカン寺)の正門では両手を合わせた後、 体を地面にひれ伏して祈る、五体投地に励む人々の姿が見られる。 五体投地は全身全霊を仏に捧げる最高の礼法で、彼らは来世の幸福を祈りながら現世を 生きているのだという。  隣接する市場、八角街(別名・バルコル)では、巡礼者たち携帯用のマニ車を手に歩いている。 マニ車とは、祈りの経文が書かれた巻紙が中に入っている円筒形の仏具で、これを一度回すと、一度お経を唱えたことになる。 これを回せばすべての罪から救われると信じている。そして何やらつぶやいている。 「オム・マニ・ベム・フーム」。チベット仏教の祈りの言葉だ。さしずめ、「南無阿弥陀仏」といったところか。 僧侶たちのなかには「ネパールのカトマンズまで一緒に巡礼の旅に行かないか」と、私を誘う者もいた。
 中国は千九百五十一年、人民解放軍を進駐させるとともに、チベット自冶政府との間に平和開放協定を結んだが、 五九年、相次ぐ暴動と弾圧で、宗教的指導者、ダライ・ラマ十四世がインドのダラムサラに亡命し、亡命政府を樹立した。 今もカリスマ的存在のダライ・ラマとは何者なのだろうか。  ダライ・ラマは人々を救うために現れた、観音菩薩の生まれ変わりとされている。世襲されることはなく、仏教の輪廻思想 によって選ばれる。ダライ・ラマの死後、その生まれ変わりが四十九日を経て受胎され、その子が五歳くらいになった時、 同じ年齢の子供たちのなかから新しいダライ・ラマ探しが始まるという。先代の遺言などに基づいて、ダライ・ラマの 身体的特徴などに一致する子供を探し出すのである。選ばれた子供は宗教、政治両面のエリート教育を受けさせられるという。