塩野 洋
(フリーライター)

<新たな侵略>
 チベットでは宗教行事、民族行事が今も政治的理由から中国当局によって制限されている。そんななか、チベット暦の六月から 七月にかけて「宝石の園」を意味するラサのノルブリンカで、ショトゥン祭が開かれ、伝統舞踊や仮面劇、歌劇が演じられた。 まず太鼓とシンバルだけの単調なリズムに合わせて、仮面をかぶった男性と、ヤクをかたどった獅子舞が観衆の輪の中の 中央に踊り出た。続いて神仏や鬼、獣の面をかぶった踊り子や、天女を思わせる赤や青の美しい衣装をまとった女性が 次々と登場。単調な踊りばかりだが、スローテンポなものはまるで日本の能のようだった。
 このように中国当局によって制限されていた宗教行事、民族行事が少しずつ復活し始めているとはいうものの、実は その伝統は危機にさらされている。チベット人は口々に「ラサには漢民族が急激に増えている」と不満を漏らす。 チベットでは近年、中国の政策によって、道やダムなどの整備が進んでいる。これに伴い、中国各地から漢民族の商人や 農業者、金鉱探しの出稼ぎ者などがどっと流入してきているのだ。確かに観光化の進むラサの繁華街には漢字の看板が 掲げられたホテルやショッピングセンター、レストランなどが並び始めている。
 ラサで飲食店を経営しているあるチベット人は「これは形を変えた新たな侵略だ」と言った。 教育についても「学校の歴史の授業は中国から見た歴史しか教えてこない。昔からあった伝統の美術や音楽は教えていない。 漢民族がどんどん増えて、チベット人は少数派になるだろう。民族文化を受け継ぐ人はますます少なくなる」と嘆いた。

<人は花と同じ?>
 遊牧民の村からの帰り道、私は一台のトラックが川に横転しているのを目撃した。スピードの出し過ぎだろうか、 交通事故だった。交通事故といっても、人里離れたこんなところでは連絡手段もないし、誰も助けには来ない。 医療機関だってどこにもないのだ。私は車を降りて近づいてみた。木陰に何かがあった。死んだばかりの男の死体だった。 通りがかった遊牧民の男女が数人、死体を五体ほど木陰に運んでいた。あまりにまぶしい緑に真っ赤な血が溶け込んでいった。 普段なら思わず目を伏せてしまう死体。でも私が見たのはなぜか不思議なほど神々しい光景だった。なぜか。 彼らの死に顔が驚くほど安らかな死に顔だったからである。
 私は今までも多くの死体を目撃している。特に交通事故で死んだ人の死に顔は痛々しく、苦悩や後悔の表情が浮かび出ていて、 見るに堪えない。しかし、この時見た死に顔はあまりに穏やかだったので、死んでいるというより、眠っているといった印象さえ受けた。ショックだった。彼らはどんな来世を望んでいたのだろうか。
 私たちの世界では文明の利器によってもたらされた疑似体験が多すぎて本当の生と死が見えなくなっている。ここでは自然は残酷なほど現世を見せつけてくれる。そんななか、人はなぜ生き、死ぬのか、という疑問に一つの答えを見いだした気がする。 人も自然の一部であるということを、私たちは文明を手にしてしまったがために、忘れてしまったのではないだろうか。 過酷な自然に囲まれたチベット。ここではどんな優れた文明の利器も助けにはならない。文明人は文明と言う壁の中でしか 生きられない、もろい存在だったのではないか。文明を知ってしまった人々は文明によって滅びるのかもしれない。ここでは 自然の恵みや自然への畏敬の念、生きる知恵を知っている人たちだけが生きていけるのだ。
 ラサに戻る途中、荒涼とした風景のなかで突然、花畑に出くわした。そこには黄色い可憐な花が咲き乱れていた。 「人は花と同じ。一度枯れてもまた必ず花を咲かせる。人もまたいつか来世で美しく咲くんだ。」いつか出会った僧侶の言葉を 私は思い出していた。