<日本との繋がりを暗示するクリンギット族の口承伝説>
この企画は、
写真家で1996年8月に他界した故星野道夫氏と南東アラスカの先住民族クリンギットの人々との交流に端を発しています。彼の著作「森と氷河とクジラ」の中に、彼がクリンギットの古老エスター・シェイのことを紹介するこんな一節があります。
「・・・エスターは、ぼくが来るのを待っていたかのように、一冊の本を持ち出し、あらかじめ開いてあったページの写真を示しながら、長い間抱き続けた疑問を問いただすかのように尋ねてきた。
『この人々は一体誰なのか』と・・・。
それは日本のアイヌの人々の写真だった。エスターは自分たちの祖先とその写真を結びつけていたわけではないだろう。ハイイログマのクラン(家系)に属するエスターは、なぜ同じような信仰を持つ人々が遥かなアジアの世界に存在しているのかという不思議さを感じたのかもしれない。が、彼女の心の中に、自分たちは一体どこからやって来たのかという根源的な問いを持ち続けていることをぼくは感じていた。」
太古の昔から、北太平洋をめぐり日本の大地に湿潤な気候をもたらす海流、「黒潮」。日本の東沖を北上しながら、その一部はベーリング海へ抜けるが、本流は黒潮として南東アラスカ沿いをたどり、カリフォルニア沖から赤道へと南下する流れはグアム、台湾へと進み、再び日本の東沖へて戻ってくる。この黒潮の流れの中に暮らす人々は、黒潮が運ぶ恵を享受しながら暮らしてきた。
そして、それはときに人間そのものを運び、見知らぬ土地で生きていく運命を受け入れた者たちもいたに違いない。
クリンギットの人々が暮らすのは米国アラスカ州の南東部である。そこはまさしく黒潮がアリューシャンの南をなめて北米大陸にぶつかるところである。そして、彼らの祖先を語る口承伝説の中に、海洋インディアンにアジアの血、特に日本人の血が流れている可能性を示唆しているものがある。その口承伝説によると、ある二人の姉妹に率いられた異人たちが海から現れ、妹につれられた人々は南へゆき、その子孫がカナダのクイーンシャーロット島のハイダ族となり、姉に従った人々はその場に残り、内陸から山を越えてきた人々と一緒になり、クリンギット族の祖先となったという。
そのクリンギット族の人々が日本へ神話をたずさえてやってきます。それは、かつてこの地に暮らした祖先の魂が黒潮を遡り、その魂の源郷に帰ってくることにほかならない。古老エスター・シェイの根源的な問いは、同時に我々日本人の根源的な問いでもあります。
<なぜ今、神話なのか。その繋がりの意味とは>
クリンギット族の人々を迎えて、彼らのもつ神話(ストーリーテリング:Story Telling)に耳を傾ける時間を日本で持とうというのが、今回の企画の趣旨です。神話とは、その時代々々において祖先から子孫たちに語り継がれきた「我々はどこから来たのか」という歴史であり、それと同時に「我々はどこへ行こうとしているのか」という問いに対する次の時代を生き抜くための知恵でもあります。
では、なぜ今、21世紀を迎えようという
この時代に神話が必要なのでしょうか。
未来にむけて様々な問題を抱えながら進もうとする現代社会をみたときに、その未来を見定めるべき羅針盤が機能を失っているようにみえるのはなぜでしょう。もしも、その羅針盤が機能を失っているとするならば、それは唯物史観に基づいて成長してきた、この社会のある限界を意味しているのではないでしょうか。では、その限界を越えるために必要なものとは何か。我々の社会はどのような価値を未来に求めるのか。
クリンギット族の人々の神話、その遠い記憶の旅は、千年単位の想像を可能にしてくれます。「わたしたち」が誰とつながっているのか、そして「わたしたち」はどこへ行こうとしているのか。新しい時代の流れの中で、そのことを失いつつある今、人間が持ち続けるこの根源的な問いを、世代から世代へと引き継いでゆくクリンギットの神話に見いだし、彼らと共有してみたい。その問いは、
「生きる力」あるいは
「生きていこうとする力」そのものです。それは、現代の
「目に見えるものに価値を置く」社会から「目に見えないものに価値を置く」次の世代の社会へと、わたしたちを導いてくれる指標になるはずです。
目に見えないもの、それは魂としての繋がり、例えば親と子、子と孫、孫と祖先、個人とコミュニティ、個人と環境・自然をいいます。その繋がりは、かつて我々の社会の精神的な基層をなしており、
神話は、人々が繋がりの中で生きてゆくために必要な教えであり、知恵だったのです。
未知の叡智は、過去を受け継ぎ生きている人々の間にあります。現代の日本社会が忘れてしまっている
「目に見えない何か」に価値を置くことの大切さを、クリンギットの人々が語る神話は思い出させてくれるはずです。