『かつて我らの師父たちは乏しいながら可成楽しく生きていた
そこには芸術も宗教もあったいまわれわれにはただ労働が
生存があるばかりである 宗教は疲れて近代科学に置換され
然も科学は暗く冷たい芸術はいまわれらを離れ、然もわびしく堕落した』

  (宮沢賢治の農民芸術概論要綱の興隆より)

 僕らの人生は芸術的な才能を伸ばすために創られた、
神々の芸術作品のはず。この世の全ては作品であり、
魂が込められた傑作だ。人間そのものが神になり、
この世で遊び回るのが人生の本来の目的だった。

 僕らはこの世界で遊びながら、自分を演じる俳優だ。
そのうえ自分自身を主人公にするのか、脇役で終わらせるのか、
配役を決定する監督も自分だ。
一生に一度の舞台で何を演じるか、神々は自由にさせてくれる。
悲劇か喜劇か感動巨編か、それぞれの意識の在り方に任されている。

  北海道の広さがあれば完全に独立国として自給自足できるだろうし、
輸出も出来る可能性もあってそれらの国に希望を与えることもできる。
我々の祖先は此処に必死の思いで来道し、
個々の理想を追求する覚悟で海峡を渡ってきた。

 ひるがえって僕たちは、当たり前のように北海道に住んでいながら、
この土地に何かを求めてきた先人の希望とか理想を、
胸に秘めて生活しているとは思えない。だったら思うがままに生きていこうぜ。
自由に生きようDNA 

 「人間のアーティストとしての才能を100%伸ばす生活」

 ライフ・イズ・アートという言葉があります。
「アート(ART)の意味は、技術と技法を使って自らの深部に潜んでいる、
無意識からの情報を使用・コントロールすることにある」とあります。

 自分の才能を自らの努力で掘りおこし、
意識下にある古代からの智慧を獲得する技術をアートというのです。
ユング流に説明すると、意識的に元型を表現する行為をアートといい、
可能性のすべてを自分の中から探し出し、
宇宙を表現する行為とも言えるでしょう。

 自分とは一体誰なのかを求める時空間での生活体験のことを人生というなら、いわゆる言葉通りのライフ・イズ・アート(人生は芸術)になります。

    ーミネルバのフクロウは、黄昏の空に向かって飛び始めるー

 ミネルバのフクロウは技術と職人の女神であり、哲学のシンボルです。
フクロウはすべての鳥が暗くて飛べない夜空に向かって飛び立っていきます。
人生の黄昏だからこそ飛び、今までの人生を振り返る時間が必要なのです。
黄昏時とは静かに森林に入って、瞑想する時間です。
 
  また現在ブームの知里幸恵さんの「銀の滴降る降るまわりに」
という詩がありますが、あの神謡集に登場するのがフクロウです。
フクロウがコタンの上空を飛翔しながら、
フクロウの神の自らの歌を唄うユーカラです。
その一部を紹介しましょう。

 「銀の滴降る降るまわりに、金の滴降る降るまわりに」
という歌を私は歌いながら流に沿って下り、人間の村の上を通りながら
下を眺めると昔の貧乏人が今お金持になっていて、昔のお金持が
今の貧乏人になっている様です。海辺に人間の子供たちが
おもちゃの小弓におもちゃの小矢をもってあそんで居ります。

 「銀の滴降る降るまわりに、金の滴降る降るまわりに」
という歌を歌いながら子供等の上を通りますと(子供等は)
私の下を走りながら云うことには、「美しい鳥! 神様の鳥!
さあ、矢を射てあの鳥神様の鳥を射当てたものは、
一ばんさきに取った者はほんとうの勇者、ほんとうの強者だぞ。」
と云いながら、昔貧乏人で今お金持になってる者の子供等は、
金の小弓に金の小矢を番えて私を射ますと、
金の小矢を私は下を通したり上を通したりしました。

 この詩の中での「私」がフクロウです。フクロウは人間世界を眺めながら、
生きるという意味を考えて、黄昏の空を飛んでるのです。
僕たちも素直になって、黄昏の空に飛び始めましょう。