「農地に黄昏楽園を作る」

 人生は人によって寿命が違うから、何年という断定はできないので、
おおよそ七十歳以上とします。一日は二十四時間あります。 その二十四時間に三を掛けると七十二になります。七十二歳を人生の持ち時間とします。 ゴジカラ村のように仕事が午後の五時、つまり十七時に終わるとして、残された時間を考えてみました。 

 自分の年齢を三で割ると、僕が五十四歳だとして三で割ると十八に
なります、つまり一日に換算すると十八時間ほど生きていることになります。
すでにもう午後の六時になっていました。 二十四時間の内の十八時間を過ごしたことになる。 あと六時間で何ができるのだろうと考えてみました。

 この一日に換算して、今までの人生を振り返る時期を老年期と呼ぶなら、
団塊の世代の殆どは残り時間を考えて過ごす人たちです。
彼らは残り時間に何ができるのだろうかと考えているのでしょうか?

 また老人とは誰を指しているのでしょうか。
人生を終えようとして死を迎えつつある人なのか、
精神的に老成して完成期に向かう人なのか。
人は誰でも例外なく老いて死を迎えますが、
身体の機能の最盛期のみを完成期とし、
精神的な完熟を待たず期待せずただ単に惚ける人が多いのでは。

 これでは何のためにこの世に生まれてきたのか、
意味も目的もテーマも見つけられずに終わってしまいます。

 現代の人間の生き方は唐突に人生を終了し、
残って生きるものに言葉を伝えることがありません。
偶然に誕生して偶然に死んでいく人生。

 自分の人生のなかに必然的なテーマを見つけようとする機会がなかったのでしょうか?果たしてこのまま何も言葉を残さず、静かに息を引き取って良いものでしょうか?

 自覚すべきことは、誰かがお膳立てするまで待っているのではなく、思い立った人から始める時期に来ていることを認識することです。政府とか自治体に依存していたずらに時間を失うより、残り少ない時間を生かすため、自らの意志で活動するステージに入って、限りある時間を有効に使うことです。人間も時代も最終ステージにあると認識し、今から自分を掘り下げることが重要なのです。

 老後の人生を衰退期にしないために、熟年に達して人生を考察するためにも、老後の生活運営、経営、行動計画、医療、生活全般に渡って互いの力で協力し合い得る施設を造っていきませんか。

 人生は芸術でありゲームであり、究極の遊びの空間である。心から安心して満足できる自由を満喫できる舞台が社会であり、その環境を整備することが我々大人の役割であると僕は思っています。
 
 そこで僕も考えた(突然言葉使いが変わります)

 北海道が自然に恵まれた大地であることは誰でも知っている。もちろん冬は厳しい寒さで大地は凍てつき、半年以上は雪に閉ざされている。決して優しい自然ではないし、知恵がなければ住むことさえ叶わない極寒冠の大地だ。

 開拓民は森林を切り拓き、畑作と稲作に適した土地改良を施して生活の基盤を作った。つまり内地のような風土を北海道に造り上げたといえる。それはある意味で、北海道そのままの自然を損なった結果でもある。本来の自然を消失させ、もともとはなかったモノを移入したことになる。

 野菜は農薬の保護のもと、毎年ごとに種や苗を植え、手間ヒマ掛けてようやく収穫できる過保護植物だ。商品価値があるからこぞって栽培したのだろうが、何処でも採れるモノを栽培するといつしか価値は下がるだろう。せっかく北海道でしか採れず、農薬散布の必要が無く、放っておいても雑草に負けないモノがあるのに。

 引き替え、アイヌにとって山菜は季節の表現手段であり、その一生は自然を循環するメカニズムの根元を作っている、カムイからの贈り物だ。北海道の自然のすべてはカムイからの贈り物で、それらを最大限に生かした生活がそのまま農業になる方法を考えてみよう。

 足下にあるこの大地を自然のままに生かし、その恵みを収穫する農法を考えるんだ。北海道の風土に自生している山菜は、北海道の厳しい自然に勝ち残った植物だ。おまけに一年の内の半年間は雪の下で英気を養っている土壌がある。それを栽培して収穫すると、それがそのまま北海道の特産物になるのではないか。

 北海道に自生する山菜を自然農法によって育成し、恵まれた自然のブランド化を計って、季節限定の健康・栄養食品として全国に普及させる。

 さらには広く海外にも宣伝して、新しい調理法のレシピを考えてもらい、先住民文化の残り香を出荷するのだ。

 人間の細胞の中に北海道の野生の息を吹き込み、自然を失った人間に食べ物という自然を与えることも文化活動の一つだ。遺伝子組み換えを拒否し、狂牛病に冒された肉を浄化し、本来の逞しさを回復するのは季節ごとの山菜を与えるのがいちばんだ。

 何も足さない、何も引かない、北海道の自然をそのままの形で栽培する。それをするのは北海道を現在の状況にしてきた人々、団塊の世代とそれ以前の老境に入った道産子の責任だと思う。

 僕たちや彼らには、最後のチャンスがまだ残されている。北海道の野生を回復できる機会があり、野生種として絶滅の危機にある山菜を栽培することによって、北海道の風土に見合った農業を育成できるチャンスがある。

 森林を切り拓いて農地にするのではなく、そのままの状態で育つ作物を探す。すると野山に生息している山菜がある。その山菜の滋養は寒暖の差に耐えてきただけあって、健康食品としては申し分がない。おまけに美味で西洋料理にも相性が合う。

 オリジナルな文化を創る以前、既にあって見向きもされなかった山菜を活用し、黄昏ゆく老人に生き甲斐を与える事業が必要になってきた。

 はたして北海道は理想的な空間を世界に向かって提供できるであろうか?