竹岡 雅史

 成田駅から空港までが一苦労なんだけど、途中で身体検査をさせられたのには驚く。厳重な警戒を経験できたことで、家族は緊張してますます胸を高鳴らせているようだった。そしてようやく北ウイングの搭乗カウンタ−にたどり着き、チケットの確認と荷物を預ける。空港のなかで味わう異国的な雰囲気は、まるでこの世から離れるような切なくも夢見るような気持ちにさせてくれる。空港の雰囲気をつくれるということで、人間が生み出した感情コントロ−ル能力も結構凄いと思わせた瞬間だ。

一足先にエトランゼになった気でいる家族は、カルガモの行進のように地下の税関へと向かう。そこで結構手間取ってしまい、いつの間にかマレ−シア航空の出発時間が来てしまった。焦る気持ちを抑えてパスポ−トにスタンプを押してもらい、駆け足で搭乗した。色の黒いスチュワ−デスに搭乗券を提示し、席に着くと安堵感が押し寄せて来た。深くため息を吐き出し、落ちついて周囲を観察すると、飲み物を配る気配がしている。さっそくビ−ルなんか飲みたくなって注文すると、間違ってワインが届いたけど文句なんかいわずに飲み干した。そして改めてビ−ルを頼んだ。
 いい気持ちが長く続き、とてつもない解放感を味わっていると、ようやく飛行機が飛び立つというアナウンスが入る。いつも離陸はこわいけど、今度ばかりは怖さを上回る期待が胸にあふれた。あこがれのオ−ストラリア航路が気持ちを高ぶらせ、至福のときをもたらしてくれるがままに心身を任せる気分は最高って。

 仕事を休み、学校をさぼり、家事をうっちゃって、家族全員が海外へ脱出する時の快感には特別な喜びがあった。何もかも投げ出してゼロになり、新しい人生をやり直せるような究極の喜びがあった。グ−ンと唸るジェット機の響きに対して、それからもたらせる緊張感に安心感を与えてくれる機長のアナウンスが聴こえてくる。安心してよ、僕が自信を持ってこれからのフライトを保証するから、ってな声がワクワク感を増してくれる。
 いい加減な人生を生きてきたけど、今回のプッツンは記憶に残る冒険だった。今までは独りででたらめを決めてきたんだけど、今回は家族を巻き込んでしまったんだ。家族とはいっても、元は僕の恋人と二人のあいだに生まれた仲間なんだけどね。とにかく一人ではなかった。バカ見たく少しは責任なんか感じちゃったりもしたけど、弱気になるほどの抵抗はなかった。イケイケで仕事を辞めて、ノリノリでオ−ストラリアに来てしまった。

 つくづく嫌になるのは、人生をたった20年ほどで決定しなさいって、高校卒業を区切りにして言われ続けることだ。とってつけたような選択肢しかないのに、どれでも好きな職業を選んでくださいって。働けば働くほど好きになる職業なんか無いって。貧弱なメニュ−しか提示されないのに、そこから好きなのを選んでっていわれる気持ちは情けない。魅力ある選択肢なんてすごい倍率か、費用が高くて手が出ないんだ。しかし。その中から何とか選ぶ他はなかった。ノ−チョイスみたいな状況だった。 そして歯医者という職業を選び、それを土台にして将来の設計をしてみたわけだ。開業をしてからしばらくすると、それがとんでもなく退屈でウンザリする仕事だと判った。でも、開業のための借金を返すのに15年以上かかり、すっかり人生設計に対する自信を失ってしまったんだ。来る日も来る日も、患者の口のなかを覗く生活に疲れ果て、新しい展望が見えてこない毎日の連続に対してウンザリしたんだ。端からみていると楽で実入りの良さそうな職業なんだけど、現実は退屈で何もない生活が続くだけだった。味気のない生活を余儀なく受け入れているうちに、何となく慣れてしまい、こんな程度の生活で一生を終えてしまうのかなとも思えてき時期だった。同時に、このままで終わる自分の人生が悔しかった気持ちもある。何とかしなくてはこのままウンザリするままに、いたずらに日々が過ぎてしまうというあせりもあった。

 幸いにというか、不幸にともいうか、娘の心臓に穴があいているという話が妻からあった。心房の中隔に結構大きな穴があいており、それを何とか心臓手術で塞がなくては生きていくことが難しいというんだ。僕は何となく煮詰まっているし、涼しい顔で仕事を続けて行けそうにもなかった。だから思い切って仕事を休んで、娘のためにすべての時間を捧げようと決心したんだ。でもそれって自分の都合上で決めた、勝手な了解なんだけどね。
 娘の不幸を自分のチャンスにしてしまうと、後は簡単だった。仕事を辞めて、スッキリと彼女の願いをかなえてやればいいんだ。それはカンガル−とコアラの国へ行きたいという願いを、思うがままにかなえてやればいいんだ。それは僕の気まぐれな欲求と一致したので、全力をあげて応援した。彼女は死ぬ前にというか、死ぬほどの苦しい体験をするならば、それが上手くいったなら何が何でも願を叶えて欲しかった。僕としては現状から逃げられならば、手段を選べるような状況にはなかった。娘と心中してもいいと思った。

to be continued