竹岡 雅史

  <一月十五日月曜日> ローマ
 一日目のローマ見物は天気に恵まれ、北海道の春のような陽気で始まった。午前八時頃にホテルを出発すると、ローマ市内はまさにラッシュアワーの真っ最中で、通勤バスや乗用車がひしめいている。特にバイクがチョロチョロと車のあいだを縫って走り、殆どが日本の原付バイクと同じようなスクータータイプだ。ウインカーも出さずにびゅんびゅん飛ばしている。髪の長いお姉ちゃんも、ネクタイを締めたジェントルマンも、きついカーブを人車一体になってヒラヒラ曲がっていく。バイク好きな僕にはたまらない風景だった。
 ただ走っている車はフランスのルノ−・プジョー・シトロエンやワーゲンとかオペルなどが、イタリア車より多く目についた。フイアットに時々ランチャとかアルファロメオが走っているだけで、イタリアでは遂にフェラ−リを見ることはなかった。
 最初はバチカン博物館とシスティーナ礼拝堂だ。歴史的な話は苦手だけど、バチカンはローマ帝国が廃れてから栄えた、世界最小の国で最も稼いだ宗教国家だ。そのお宝を拝見に行った。入場料18000リラで、邦貨に直すと1000円くらい。内容を考えると高くはないが、イタリアの諸物価からするといい値段だろう。ワインの箱入り一リットルが1200リラ(74円)で売っていたから。
 その美術品の本物度は抜群で、実に贅沢で豪華で圧倒された。百聞は一見にしかずとはこのことだ。ただセンスはいいんだけど、趣味が悪いというかディスプレイが混み合っていて、見る目にきつい感じがした。要するにおびただしい数の作品を、隙間なく並べているので疲れてしまうのだ。間というか、無の空間を上手に使えば、もっと価値が滲み出るのにと惜しかった。モノに執着する気持ちが日本人より遙かに強いのだろうか。
 システィーナ礼拝堂の床に、龍安寺の石庭を持ってくると面白そうだ。せっかくのミケランジェロの壁画「最後の審判」も、青いふんどしを付け加えられては台無しだ。宗教的な恥じらいが、人間の本来的な美的感覚を歪めていた。バチカンはとてつもない感動を与えてくれたが、無性に腹が立った場所にもなった。本当に勿体ないことである。
 でもサンピエトロ寺院の「ピエタ」には感動した。ミケランジェロ、24歳であそこまでやるのか。とても大理石で作られたとは信じられない、瑞々しさに撃たれてしまった。ミケランジェロとラファエロとレオナルド・ダ・ビンチに焦点を絞って、イタリアを目指した僕としては「ピエタ」に注目していたんだ。粗削りのミケランジェロ、豊かで滑らかなラファエロ、ビンチ村のレオナルドの迫力をこの目で見たかった。だから日本で開かれた彼らの展覧会には一度も足を運んだことがなかった。生のままイタリアで見たかったからだ。それを生で見た気持ちは、作者のオーラを直接感じたということになる。
 何千年も前の作品に備わったエネルギーが、現在でも明らかに発散して伝わってくる。あの無様なふんどしを巻き付けたキリスト、その横で不安げに暗い顔をしているマリア、ミケランジェロの死後に改ざんされた「最後の審判」でさえ、オーラを放っている。
 歴代の法王達は、ミケランジェロの描いた天井画の横に等身大の肖像画を並べている。その悪趣味な組み合わせさえ、尊厳なたたずまいに見えるほど、ミケランジェロはシスティーナ礼拝堂を神聖化していた。俗悪な宗教者達が、一人のアーティストによって聖化されていた。
 それにしてもキリスト教のような一神教というか、他の神々を認めないストイックな宗教のもとで、自由奔放な芸術を繰り広げた先人には感心する。抑圧と制限からの脱出を、日本では鎖国によって味わった。徳川幕府による鎖国制度は、究極的には葉隠のような武士道に意識を収斂させ、個人をちっぽけな存在にしてしまった。
 ルネッサンスという名の文芸復古運動では、そんな個人をいかにオリジナルに立ち上げながら、宗教絵画の元で輝かせるかに焦点が当てられた。そんな気がする。
 ローマの町を散策するほどの自由時間はなかったが、市内観光をスペイン階段の前で解散してから2時間ほど、トレビの泉やベネト通りをフラフラうろつくことができた。ローマは泥棒の町と言われるくらい、スリや置き引き等のかっぱらい犯罪が多いと聞かされていたので、少しだが緊張して歩いた。
 手始めにブランドの店が立ち並ぶベネト通りで、見るだけのウインドウショッピングをした。普段からブランドなんて興味がないから、安いのか高いのか価値そのものが分からないので、あっという間に終わってしまう。隣の通りも裏の路地も隈なく探検しているうちに、トレビの泉まで歩いてしまった。
 それでもローマの町並みには歴史があるという感じが、至る所に散らばっていた。建築物の素材から様式、看板や道路標識や電信柱が見当たらないところまで、そこにはやっぱり日本では見られない風景があった。僕たちは何だかヨーロッパにいるんだなーって歩きながら感激していた。
 哀愁のローマなんて気持ちでホンワカしていると、どこか見覚えのあるカフェーの前を通った。映画か写真かはたまた絵画か、その店のたたずまいは懐かしい雰囲気がある。小さな看板を見ると、「カフェ・グレコ・AD1760」と書いてある。あの有名なカフェグレコだった。迷わず入ることを決定し、カプチーノと美味しそうなケーキを注文した。
 古い本棚があって、カウンターがあって、いかにもイタリアンな給仕がいて、丸いテーブルも大理石だった。指定された席に座った僕はおもむろに、「ドゥエ・カプチーノ、ウノ・テラミス、プレゴ」と頼んだ。僕の父さんに似た給仕の人が「シー」と受けてくれ、すぐさま本場のカプチーノとテラミスを運んでくれた。「グラッツィア」、「プレゴ」。うちの家族にはイタリアンの血が入っているような、親密な感じが漂っていた夜だった。

<一月十六日火曜日>ローマ:
 早朝七時半からバスに乗ってポンペイとナポリに向かう。アッピア街道を見ながらローマの松の由来を聞き、全ての道はローマに通じるという話を思い出す。古代ローマ時代をそのまま残している遺跡、ベスビオスの麓のポンペイは南イタリアの都市ナポリのそばにある。高速道路は整備されていて、三時間半くらいで着く。
 外観から感じたのは、ベスビオスとポンペイと地中海の景色が、樽前山と苫小牧と太平洋の配置に似ていたことだ。火山と都市と海の関係が興味深い。でもいざポンペイの城壁の中に入ると、遺跡というにはあまりにも生々しい生活感に圧倒される。
 町の中心に向かって石畳の道路が集束され、中心をなす場所は市民が集合できる広場になっている。太陽神殿と女神神殿などが大通りに面して立ち並び、大浴場とか貴族の邸宅とか売春宿まで、殆ど屋根以外は無傷で揃っているのだ。火山灰がふわっと町全体を覆ってくれた結果なのだろうが、日本の木造建築物で構成された市街なら決してこうはうまく残らない。もちろん風化はしているが、目をつむればありありと華やかだったころの町並みが浮かんでくる。
 このポンペイが紀元前から栄えていたというけど、日本ではまだ卑弥呼も現れていないころだろう。上下水道も完備され、公衆浴場もあり、大邸宅もアパートも、下手をすると現代生活より近代化されている。人間が作ってきたこの社会は、本当に進化してきたのだろうか。下手をすると精神的にも何にも変化していないようだ。奴隷とか召使はもういないけど、貧富の差とか身分格差は大して変わらない。
 とにかく僕は少なからず驚いた。イタリアに来て驚いてばかりだけど、それが海外旅行の醍醐味なんだろう。これからの人生もっと感激していきたい、そんな気持ちでナポリ。ベディ・ナポリ・エポイ・ムオリ(ナポリを見て死ね)、でも死ねないぞまだまだ。ナポリは物騒だからという理由で、ただ通りすぎるように見物しただけだった。ここでは何度かツアー旅行の添乗員が、引ったくりに襲われてパスポートを奪われる事件が起きる。
 少し前まで添乗員は団体旅行の客全員のパスポートを預かっており、それが入っているバッグを奪われることは死活問題だった。ナポリだけでなくイタリアの引ったくりはバイクで襲ってくるから、バッグにしがみついていると引きずられて大怪我をしたり、運の悪い人は頭を石畳に打って亡くなったそうだ。毎年何件か現在でも発生するらしい。そんなわけでナポリで死ぬわけにはいかない。
 景色はさすがに素晴らしい。でもピザパイの本場で、ピザの一切れも食べられないのは悔しい。それでも昼飯にナポリターナのスパゲティーを食べられた。アサリが入っていてすごく美味しかったので、タント、タントと注文して大盛りにしてもらった。
 ナポリでもローマでもイタリアの町並みは、高層ビルディングが建ち並ぶ景観は少ない。と思っていたら、ナポリの一角にまるで新宿副都心のような高層ビル群を発見した。にょきにょきと見慣れた風景に驚いていると、それらを建てたのは日本人だそうだ。建築家の丹下健一らが一連のビルディングをナポリの新都心を作ったのだ。
 古いものを大事にするばかりに、新しい景観を日本人に任せてしまった。その話を聞いて世界中からイタリア人の建築家や設計デザイナーが、俺たちにも参加させろと戻ってきたらしい。ナポリは南イタリアの都市でかなり貧しかったから、彼らは国外に出て働いていた。地元に誰もいないから国際コンペティションで応募したら、日本人と納得の出来る交渉が出来たらしい。たぶん良い刺激になったんだろう。
 ナポリから再び高速に乗ってローマに戻り、おとなしくホテルで休息をするはずが、近くにスーパーマーケットを発見した。添乗員のお姉さんがたしなめるのを振り切って、すっかり仲良くなった旅の友達とスーパーへと歩いた。僕たち二人と古田さん夫婦計四人は街灯もない暗闇の道路を、約三十分くらいお喋りをしながら歩いた。昨日も行ったのだがスーパーは閉まっていたのだ。普通の人ならやめるのだが、僕たちは今日こそ開いていると思ってしまう性格なんだろう。楽天的というか好奇心が強いというか、どしてもローマ人の庶民生活感を覗き見したかった。
 安くて品揃えは豊富で、ソーセージ・ワイン・チーズ等の種類は目が回るくらいある。見たことも聞いたこともなメーカーのワイン1リットル1000リラからあり、他にもホテルでは2000リラもするミネラルウオーター500CCが500リラで売っている。早速僕等は買い物を開始した。ブランド物には見向きもしなかったのに。
 まずスパイスのたっぷり入ったカルパスソーセージ、白カビに覆われたやはりスパイシーなソーセージ、どんな味だか想像もつかないソーセージ、それぞれ一つずつ買う。チーズはかなり恐ろしそうなのがあって、用心しいしい小さめのを二つ。ワインは例の箱入り壱リットルものと、シャンペンを試飲して美味かったので一本、ついでにスコッチなんか10000リラだったので思わず衝動買い。(ちなみに、僕たちが行ったときのレートでは、1000リラ60円くらいだった)
 ミネラルウオーターはこれからも必需品なので、まとめて12本500CCボトルで6000リラで買い、訳の分からない清涼飲料水もまとめてオロナミン大の小瓶6本買う。(この小瓶、味はぐうえーっ!!モノだった。色はよかったんだけど)
 あとはいろんな小物を買いまくり、総計で25000リラで日本円に直すと1800円位だった。実感として半額以下より割安感はある。もっと研究すればさらに安くなりそうだ。というわけで、イタリアの物価は日本より五割安というところか。逆に考えると所得は半分で暮らせることになる。何となく納得しながら歩いてホテルまで帰った。
 シャーワーを浴びてワインを飲み、リラーックスしながらテレビを眺めていると、明日のイタリアは全国的に冷え込んで降雪になるらしい。特にトスカーナ地方を走る車は注意してください、峠付近で豪雪になる恐れもありますと言うようなことを、CNNのニュースで言っている。げっ、トスカーナといえば明日の旅程のフレンツィエのことではないかいな。花のフレンツィエは、雪の舞うトスカーナ地方になっちまうのだ。
 イタリアは暖かく、日本なら京都か大阪の気候でしょう。もちろん股引きは必要なく、厚着をして汗をかいて風邪を引かないように。それが当たっていないことはローマに来てすぐ分かったが、まさか雪が降るとは思わなかった。花のフイレンツェに雪が降るとは。
 そうと分かっていたなら、スーパーで暖かそうな綿入りジャケット20000リラで買ってきたのに。千歳空港でホカロンを買ったハニーは正しかった。明日はとにかくあこがれのフレンツィエに行く。というわけで移動のための荷造りをし、出来るだけ暖かさを演出した身繕いを考える。
 明日はウフツィ美術館でボッティチェリや、ダ・ビンチや、ミケランジェロを見なくてはいけない。メディチ家の財宝を拝みながら、ベッキオ橋を渡って革製品加工の名人に会いに行くのだ。そこでブランドではない、本当の職人に靴をオーダーするんだ。僕はハニーに何も買ってやったことがないので、そこで彼女に素敵な靴を買ってやる計画がある。
 素晴らしかったローマ・サミット・ホテルを八時に出発し、我々はトスカーナ地方に向かった。高速道路は完璧で揺れも少なく、途中の休憩地点で一服した。その休憩地点には必ず日本語の話せるイタリア人か中国人がおり、あれこれと商品説明をしてくれる。どうも旅行社と契約しているお土産屋さんらしく、互いにお客さんの提供をしながら情報を交換しているのだろう。でも結構良心的で、値段も納得できるものだった。
 いよいよフィレンツェに行くので眠ることもできなかったが、まっこと本当に来てしまった。彼方にベッキオ橋が朧げに見える。バスから下りてアルノ川の辺を歩きながら、ウフツィ美術館に到達した。はやる気持ちを抑えるように昼食を取りに、近くのレストランテで美味しいパスタをいただいた。美味しいけど気持ちが落ちつかない、早く見たい。
 ウフツィとは英語で言うとオフィスのことで、メディチ家の事務処理を行っていた場所だ。三菱とか三井を凌ぐ大金持ちのメディチ家は、財をつぎ込んで古今東西の芸術品をコレクトしまくった。僕も金持ちなら多分したかどうかは疑問だが、彼ら一族はキッチリと実行した。だからフィレンツェは今でも輝いているんだ。