竹岡 雅史

<一月十七日水曜日>
 フィレンツェはイタリアでも温暖な気候に恵まれた街で、中心部を縫ってアルノ川が流れている。どんな本にもそのように書かれているけど、僕たちの日頃の行いが善くなかったのか、ローマより寒かった。鬱陶しい霧雨のせいもあって、全体的にボワーンとした印象がした。もちろんそれは一見の観光客でしかない感想だが、ウフツィ美術館はそんな気持ちを奥深いものに変えてくれた。
 ボッティチェリのビーナスと、ダ・ビンチの受胎告知には感動した。やっぱり本物は凄みがある。胸を打つ迫力がある。特に受胎告知の天使ガブリエルのポーズには、ハッとさせる何かを放っていた。聖母マリアに向かって矢を飛ばすような気迫が伝わってきた。
 僕は芸術を云々するほど学識はないが、直観で何かを感じることは誰しもあり得ることと思う。素直な気持ちになって、見るべき対象を眺めていると、スーッと伝わってくるモノがあるのだろう。花のフィレンツェに相応しく、街角の置物やミケランジェロ広場からの眺めも、一つの芸術作品の趣があった。イタリア人にとって、生活する場所が作品というか、人生は芸術(LIFE IS ART)というようなこだわりがありそうだ。
 そのあとは有名なドゥオモまで歩き、その荘厳な建物の外観を見ながら写真などを一枚撮る。モデルさんがいいから有名なカメラマンになった気がする。中がまた綺麗だった。しかし、その美しさを文章で表現することは難しい。本当の意味で百聞は一見にしかず。格安のパック・ツアー旅行も、体力さえあれば中々面白くてためになります。
 約一時間ほどの自由時間が出来たので、僕たちはベッキオ橋までぶらぶらと歩き、注文靴の専門店でバーゲンをやっていたので、ハニーに靴をプレゼントした。8000円程。店の名前は「MANNINA」という名前で、知る人ぞ知る有名な店だったらしいが僕たちは全く知らなかった。同行したツアー仲間の若いお嬢さんに教えてもらったのだ。
 ホテルに行くときにバスの運転手さんが道を迷って、一時間ほどクルクル街中をさまよった。フィレンツェは本当にこじんまりとしていた。この町が何回も戦火をくぐり抜け、洪水で大被害に遭ったとは信じられない。住む場所に命を掛けてこだわるのがイタリア人というかヨーロッパの特徴なのか。本当に過去の思い入れが深い。
 ようやく着いたホテルの名前は、「NOVA」という名前で超ゆったりの豪華なたたずまいなのに驚く。部屋が二階建てで、上がリビングで下が寝室とバスルームだったんだ。
 早朝にフレンツェを散歩しようと近くをうろついたが、小さなタバッキしか開いていなかった。タバッキというのはコンビニを古くして、サンドイッチとコーヒーを提供できるスタンドがある。たぶん近所の人と思える人が朝食をとっていた。タバッキはタバコを売る店という意味だそうだ。

<一月十八日木曜日> 
フレンツェからベネチアへ 例によってパンとコーヒーとミルクのコンチネンタル・ブッレクファーストを済ませ、水の京都ベネチアへ向かうべくバスに乗った。ベネチアといえば温暖化の影響で水位が上がって、サンマルコ広場が水浸しになるシーンがニュースで報道されている。僕たちがイタリアに着いたときも多分そのような状態だから、覚悟しておいてくださいと添乗員のお姉さんも言っていた。水浸しの都ベネチアも面白そうだ。 バスはアペニン山脈を越えてポー川流域のポー平野へ行った。途中の峠で雪が降りだして交通事故があちこちで起きていた。高級なベンツとトラックが衝突していたり、スリップをして崖下に落ちたクルマもあった。イタリア人は雪が降ってもスリップを念頭に入れていないかのように、コーナーに突っ込んでいくようだ。僕たちのバスの運転手もイタリア人だから、カーブのたびに緊張して足を突っ張らしていた。
 雪は降り続き、ボローニャを過ぎてもかなり(10センチ位)積もっていた。世界で最古の大学がある町で休憩して、パドバを過ぎたころから雪は消えた。もうすぐアドリア海に面したベネチアだ。対岸は旧ユーゴスラビアになる。海はアドリア海。
 ベネチアの市街に入るには歩くか、船で行くしかない。万年歩行者天国の国だからだ。僕たちは水上バスでサンマルコ広場の近くの港に着き、少しばかり歩いてサンマルコ寺院に入った。ビザンチン様式とすぐ分かるギリシア正教の絵模様が内壁に施され、ローマンとは趣が違っていた。何となく丸っこくて可愛らしい。塔の先端にもボンボリのような、玉が三個ずつぶら下がっている。だから三丸個かと納得した。水浸しではなかった。
 昼飯は美味しいトマト味のスパゲティーで嬉しかった。その後は4時間近く自由時間があったので、迷子になるまで散歩しまくった。ベネチアングラスや革細工を見ながら、リアルト橋を渡ってサンポール街をうろついた。素敵な色の革の財布を五個(14000リラ)と、ベネチアングラスの小物を二三個も買ってお土産にした。
 運河があって建物が並んで、小さな橋を渡ると小路があり、面白そうな店が並ぶ広場へと続く。そのような町並みを見物しているうちに、迷路にはまり込んで方角が分からなくなった。確かにサンマルコ広場はあっちという道案内板はあるんだけど、それがすんなりとは到達しないで、沢山の店の前を通るような工夫が施されている。サンマルコ寺院のドームは見えていても、案内板どおりに歩くと迷子になってしまうようだ。
 そこで通行人に道を聞きながら、サンマルコ広場を目指すとすぐに着いた。似たような風景ばかりで、道しるべになる物が見つからない時は、片言でもいいから住民に聞いたほうが適切なアドバイスを貰えるようだ。
 サンマルコ広場の代表的なカフェ「フローリアン」で休憩をした。メニューを眺めてアフターヌーンティーを頼むと、テーブルより大きなお盆にケーキ・スコーン・サンドイッチ等の食べ物と、ジャム・ママレードそれにポットにたっぷりの紅茶が恭しく運ばれてきた。ちょっとお茶でもと思っていた僕たちは、その盛大さに少し恥ずかしいような嬉しいような気分。夕食前だというのにお腹がいっぱいになる。
 どうやらベネチア風のカゼを引いたようだ。すこし寒けがする。
 ホテルはやはりベネチア市街からかなり離れ、中国人が経営する「ウイーン」という名前で立派ではない。バスタブはあるけどお湯がぬるくて身体は温まらない。寒い霧の中を歩き回ったので、熱い風呂に入りたかったのに。眠ると登別温泉に行く夢を見た。

<一月十九日金曜日>  ベネチアからミラノへ
 いよいよイタリア旅行最後の都市「ミラノ」だ。今回の訪問地では一番北にあり寒さも厳しいと思われるので、身体中にホカロンをくっつけて身支度をした。こんなに寒いんならダウンジャケットを着込んで、下半身は股引きで武装してくればよかったと思う。
 高速から下りてすぐミラノ中心地にあるレストランテで昼食をした。サフラン風味のリゾットがとても美味しかったが、ミラノ風のカツレツは薄っぺらくて期待外れ。たぶん食べ慣れていないから、味わいが分からなかったのだろう。そこはイタリア人のお客さんも多く、壁には有名人とオーナーの写真も壁いっぱいに貼ってあった。
 パックツアーでは、決められたメニュー以外に食べたくなっても、簡単に変更できないのが残念だった。せっかくイタリアまで来たんだから、現地のイタリア人が食べているものを注文してみたくなる。名前も分からない料理が美味しそうに見えるし、ナポリに行けばピザが食べられると楽しみにしてたのに。(ナポリのピザが悔しいよ!) スカラ座の内部を見学した。映画で見たとおりの桟敷席や貴賓席(ボックス席)が、真っ赤なビロードに包まれているようだ。ここならオペラ見物も我慢できそうだ。東京で芸大の学生によるオペラを見たとき、退屈で眠りこけたことがある。でもここなら見物客を眺めているだけで楽しいだろう。
 スカラ座併設の博物館を見たあと、ドゥオモの中に入ってステンドグラスを見た。ここは北なのでゴシック様式だと分かる。線がシャープで上へ上へと伸びていて、まるで大木がぐんぐん育っていくようだ。ステンドグラスと太陽光の関係が見事で、不思議な空間に漂っているような気分になる。宗教的な威厳と妖しい美しさで、意識が変性しそうだ。大きな丸天井まで登れるそうだ。自由時間にチャレンジしてみよう。
 次はいよいよ最後のガリレア・ビットリオ・エマヌエーレ二世、エマヌエーレ二世のイタリア統一を記念して建てられたアーケードだ。スカラ座広場とドゥオモ広場を結んでいる鉄とガラスのアーケードは、中央に美しいクーポラ(天蓋)があり、その真下で靴の踵をくっつけながら回転した。言い伝えでは、タイルのモザイクにある丸い模様を踵で踏みながら、クルッと身体を回せば願いが叶うそうだ。もちろん僕たちはクルクル目迷いするほど回って、神様にタップリとお願いをした。神様を信じているから願いは叶うだろう。
 またしてもナポリのピザが恨めしい。ドゥオモのステンドグラスを天井から眺めると、この世のものとは思えない色彩の世界が見えるそうだ。そのことは教えられて知っていたのに、つい忘れて自由時間に美味しそうなピザ屋さんに飛び込んでしまった。アーケード内にあったカフェZUKKAが美味しいよ、そう地球の歩き方に書いてあったのだ。旅行案内書でかかれている店を見つけることは滅多にないから、思わず飛び込んで「ピッツア・ウノ・プレゴ」ってやっちまったんだ。
 パン生地のピザは日本で食べるのと変わりなく、なにもミラノでわざわざ食べる代物ではなかった。がっかりして集合地点のドゥオモ広場に戻ると、若い同じツアーの女の子たちが、盛んに「綺麗だったわー、ステンドグラスが」と言っている。彼女たちは天井まで登ったそうだ。そして度胆を抜かれる光景に感動していた。僕たちはガックリしていた。 ミラノのホテルも例外なく遠距離にあり、一時間ほど走ってようやく着いた。リパモンテ・ホテル&レジデンスというところで、広大な敷地に建物が立っていた。部屋は立派で湯船は深く、冷蔵庫もテレビもベランダも何かも新しい。イタリア最後のホテルは豪華だったが、明日は飛行機の出発が午前六時五十五分なので、モーニングコールは四時半だという。夕御飯を食べたらもう十時じゃないか。寝るのが惜しいけど、カゼも引いたし殆ど夜中の出発だから、早めに寝るほかはない。