竹岡 雅史

「サムイ島の最後の日」   3月4日 日曜日
 今日は完璧にリゾ−トをする日。何処にも出掛けないし、バイクにも乗らないし、ビ−チに朝から晩まで寝ころがって、ウダウダしている日だ。
 朝食を八時に済ませ、いきなり海で泳いだ。とにかく海水は暖かいので、朝風呂に入るような気楽さだ。ビ−チの端から端まで泳いで(1キロくらい)、例によってプ−ルで身体をすすぐを数回繰り返す。最後の日なのでシュノ−ケリングもして、天秤を担いで食事を提供してくれたオバさんから、最後の昼食を取った。
 ソンタムと焼きおにぎりと焼きとり、本当に美味しゅうございました。フロントのお兄さんとお姐さん、いろいろとお世話になりました。先客が置いていった読書済みの本、結構面白かったので、近くの古本屋にプレゼントしてきました。小さな湾になっている砂浜と、それをぐるっと囲んでいる椰子の木の林とそよぐ微風、心なごませてくれた景色ありがとう。
 リゾ−トするって思ってたより簡単ではない。日々ひたすらノンビリと暮らし、朝から晩まで自分のしたいことだけしかせず、唯我独尊を決め込むってのは難しかった。一日くらいなら出来るけど、三日目あたりになると何もしないのが不安になる。
 確かに外国人(特に白人)を見ていると、何日も僕たちより多く滞在しているのに、平然としてリゾ−ト生活をエンジョイしている様子だ。少なくとも退屈そうには見えない。ユッタリと優雅に過ごし、心から休暇を楽しんでいるようだ。彼らの羽目の外し方にもうかがわれる。
 僕もやっぱり日本人だと痛感させられるのが、リゾ−トできない自分を持て余しているときだった。心の底から楽しいと思い込もうとしている自分が、帰国した後のことを何となく気にしていた。後ろめたいような気まずさが消えず、仕事休んで一体なにやってんだろう、そんなどうしようもない自分がいるんだ。
 そもそも、人はなんで旅をするのだろう。日本にいたときはあまり考えなかったが、タイに来てその旅の意味が少し分かりかけてきた。
 例えば、ある会社の社長さんが昔はその会社の社員だった、という話に込められる内容はありきたりだ。ところがその会社の守衛さんは元は社長だった、となると話は変わってくる。その守衛さんは何で社長から格下げになったのか、普通なら恥ずかしくてこの会社には居られないだろうとか、停年後はそんなこともある会社なのかな、とまああれこれ想像が膨らんでくる。
 日本の医師会や歯科医師会で月々の小遣いが、5万円から10万円だというとヘ−ッで終わってしまう。つまり「たったそれだけ」で済んでしまう。せいぜい少なくて可哀相、どんな事情があるんだろう、そんな話くらいで済んでしまう。
 ところがタイに住んでる人に同じ話をすると、「ひえ−っ」という感じで絶句される。「そのお金の全部が自由に使えるのか」とか、「それじゃいったい幾ら稼いでいるのか」という質問が次々と出てくる。タイの人は月に1万円で暮らす人も多く、女子銀行員でも3万円くらいだ。月に10万円を好きに使える人は大変な人になる。
 何が言いたいかというと、タイに来てみると自分が豊かでリッチな人間の部類だと気がつく。日本に住んでいる状態の素のままなんだけど、こっちに来ると世界が変わるのだ。 このまま一生うだつの上がらない人生が続く、そんな想いに思わぬ考えが浮かんできたりする。このまま日本から貯金を持ってきて、バ−ツに切り換えてこっちの銀行に預ければ、6%の利子だけで暮らすのも可能だ。それとも日本での仕事はそのままにして、月々の稼ぎだけをタイに送って、家族はタイに暮らすという単身赴任はどうだろう。格安航空券なら、北海道と沖縄くらいの費用で交通費は出る。なんて言ったって、生活そのものをタイに持ってくれば、人生一気に変わって金持ち父さんになるんだ。
 そんな空想で頭がいっぱいになるコトもある。旅をすると何か新しい考えが飛び込んできて、世界の見方が少し変わることがある。というより自分自身を変えてみたくなる。たぶんエクソダス願望というか、この世の中から自分をアウトプットして自由になりたい、そんな気分を多少とも慰めてくれるのが、旅の醍醐味なんだろう。
 自由になりたい気分というのは、誰にも干渉されず思うがままに生きて、旅の途中で野垂れ死にしてもいい、そんな感情がこもっている。裸で生まれてきて、裸で帰る気持ち。
 年収の何倍もする高額な金額を払って家を購入し、ウンザリするほど長期のロ−ンを組んで、自ら自由を奪ってしまう。
to be continued