竹岡 雅史

 旅と夢が似ていると思ったことがある。始めての海外旅行であったグアム島で、ホテルの窓の外に椰子の葉が揺れるのを見ていたとき、ふとその光景が夢なんだと思ったことがある。たった2時間ほど前に出発した千歳空港で寒さに震えていた自分が、海辺で汗を浮かべながら熱帯の景色を見ていることが。北海道の最も寒い町に生まれた自分自身が南国で呼吸をし、豪華なホテルでブル−ハワイでほろ酔いかげんの夢うつつになっている。
 夢の世界と現実の世界を区別することは他愛ないと思っていたが、旅をすることで未知との遭遇をすると自信が無くなる。今までの日常が消失し、異次元の世界で困惑しているような気になるからだ。何時間も並んでようやく列車のキップを買える順番がきたら、窓口のお姉さんの「メイヨ−(没有)」という怒鳴り声を聴いてしまう。便意を催してトイレにしゃがんだ瞬間、丸見えの隣で女性が丸いお尻を出して用を足している。日本という国が普通なんだという常識が崩れ、世界中の人間が同じ意識で生きてはいないことが分かる瞬間だ。
 僕たちはアジア人なんだけど、西洋人の意識で生きている錯覚に陥っている。顔も宗教も周囲の自然環境もアジアなんだけど、心はまるで西洋人のような感覚で生きている。不思議な国こそ日本であるのに、なぜかアジアにエキゾチックを求めて旅に出る。西洋文明とアジアのそれが微妙に混じり合っている坩堝が日本で、あらゆる人種の世紀末的な現象が出現している。ある意味では新種のウイルスを生み出している培養地域地帯かもしれない。ポジテブとネガティブが接触して希望が生まれるように、マイナスとプラスが反応してエネルギ−が発生するように、ヨ−ロッパとアジアがカオスになって日本を生んでしまったのだ。

 日本人は夢の世界を作り上げ、夢の世界で生活をしている。此処はあらゆる意味での仮想現実世界で、本当の現実感を体験できる場所ではなくなった。それゆえひたすらアジアに旅に出かけて存在感を確かめる。アジアに魅力を感じる原因の一つに、古くて懐かしい縄文時代の味わいがあるからだ。我々は既に歴史的なフィクションで騙され、真実の民族的なアイデンティティ−を確信したことがない。天皇制の万世一系も信じられなければ、古事記も日本書紀も信じることが出来ない。自分自身の出自も分からないという地球の孤児であることに気づいたようだ。
 日本人は本当の意味で特殊な民族で、手前勝手な論理を振りかざしている。世界中をカオスに巻き込みながら、経済でも政治でも唯我独尊を決め込んで平気だ。未来にどのような事態が横たわっているのかも知ろうともせず、ひたすら経済的な動向のみに興味を持っているだけ。その上に科学が進歩したおかげで人間は幸せになり、子供も大人も皆が満足する方向に向かって生きていると思い込んでいる。ハイテク技術の進歩が人間の心理に何を残したのか、その功罪も考察することがない脳天気国家が日本だ。子供たちと老人の現状を見てみろ、彼らは絶望しながらも何らかの手はないかとひたすら生きているだけだ。

 我々が乗っているボ−トがいま正に滝壺に落ちようとしていることを関知した若者が信号を発信しているのに、心理的なパニックを落ちつかせようと説得しているようなものだ。滝壺に落ちる否かの瀬戸際になっても落ちるわけがない論理を説いている。危機を解決することなく先伸ばしし、あえて外科的な処置を躊躇する論理だけの医師のような立場。不良債券の処理を先伸ばしにする理由を幾つ考えても、抱えた借金は徳送令を出さないかぎりゼロにはならない。だから借金は軽いうちに消したほうがいいのだ。
 人間の能力は限りなく限界に近づいて、限界を超えようとしたとたん壁にぶちあたる。過去においてはゆるやかなカ−ブを描き、20世紀に入っては急激なスロ−プをダウンヒルするように、極限に向かって降下している。資源の枯渇とか社会的なシステムの崩壊という名の瀑布が寸前に迫っているのに、あたかもこのまま川が続いていることを信じて。科学的な楽観主義がもたらす宗教的な逆転劇を信じて、直観からくる危機に対して耳を貸そうとしない。危機感は外側からくるだけではなく、常に内側から沸き上がってきているのに、自分自身よりマスコミとか周囲の人々の意見に忠実であろうとしている。
 川はいつか海にたどり着き、環境次元が変化して世界が変わる。